蒲生氏郷  12万石の大名として松阪の領主に

 信長から秀吉に政権が移り 天正12年(1584)蒲生氏郷は、秀吉より伊勢松ケ島12万石を与えれます。そして 同16年(158814歳で初陣をした大河内城から近い飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)に松坂城を築城します。

 

 氏郷は、のち(1590) 会津若松に移封になり鶴ヶ城を築いています。近江日野から商人や職人を引き連れて松坂の街づくりを進めましたが、会津でも商人や職人の移入をはかり城下の地場産業の育成につとめました。松坂、会津若松ともにそれほど長い統治ではありませんでしたが後の産業発展の基盤作りに大きく貢献しています。三十数年も前、会津若松にある氏郷の墓を見たくて行ったことがありますが時代はかわっても慕われているようで手厚くまつられていたのを思い出します。

 

  和歌や茶の湯を嗜み利休七哲の筆頭でもあった氏郷は、また自ら陣頭に立っていくさを戦う武将で 文武両道に秀でた名将でした。が無念にも40歳の若さで亡くなりました。あと10年生きていたら日本の歴史は変わっていただろうという人もいます。

 

 ちなみに昨年(2011)のNHK大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」の浅井三姉妹の「茶々、初、江」の三女、江より氏郷は5歳年上で同時代を生きた織田信長の娘婿と姪ということになります。

  氏郷の辞世の句

    限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風

   

  (風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうので

   す。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか)

 

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7

  http://tsurugajou.seesaa.net/article/90236365.html  

 

 氏郷年表

 http://n.ashitane.net/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7#e_8022

 

 会津若松にある氏郷の墓

  http://inoues.net/club/aidu_ujisato.html

  

和歌山街道  

氏郷が会津若松へ移封になったあと松坂の城主は、 1591年 服部 一忠(はっとり かずただ)、1595年 古田 重勝(ふるた しげかつ)とかわりました。1619年(元和5年)南伊勢は紀州藩の藩領となり松阪城には城代が置かれました。紀州藩の全領村の4分の1以上の470村あまりが伊勢領でしたので、和歌山・松坂両城下を結ぶこの街道は、藩士や商人たちにとって重要な陸路であり、街道筋も大いに繁盛しました。 

 

和歌山街道は、紀州藩、阿波蜂須賀藩、大和高取藩が参勤交代の道として使っていたそうです。紀州藩は110年間この道を通って参勤交代をしましたが、高見峠など道が険しいことと、行列の人数が増えるのに対して宿場や人足が対応しれなくなったため第七代藩主宗将(むねのぶ)以後は大坂を回り、東海道、美濃路、中山道などを利用するようになったということです。 

 

宮前は和歌山街道の交通の要衝(松阪~波瀬の中間点、美杉村への庄司峠越え、尾放峠より大杉谷へ通じる)として栄え、江戸時代には 本陣、代官所、金納所、伝馬町などの藩の施設が置かれ、旅籠、髪結、籠屋などが建ち並び、宿場町として賑わったようです。江戸屋、角屋、青木屋、岡本屋、富士屋、泉屋、大坂屋など8軒の旅籠があり、そのうち1番大きかった江戸屋は昭和の時代まで営業されていました。

 

    滝野家(本陣)古写真                片町古写真

(大正から昭和初期ごろ、辻井久子氏蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな賑わいのなかにも残念な出来事もありました。時を下って明治16年(1883)神社前の民家13戸を焼失する大火があったということです。

  花岡神社前の家並 (1985年頃?)

写真は、三重県教育委員会 [初瀬街道・伊勢本街道・和歌山街道](1986年)より

 

波瀬には中村屋という屋号の本陣や、伝馬町が置かれ、油屋、宇陀屋、大坂屋、松坂屋などの旅籠が建ち並び、塩や魚、米などを扱う商いや巡礼の宿泊地として賑わったそうです。

 

和歌山街道と熊野道のT字路 七日市は、 伊勢、吉野、高野山詣への巡礼道の途上で、 またかって紀州方面の魚や塩が湯谷峠をへて奈良方面に運ばれていて和歌山街道最古の宿場であり 川俣屋という本陣が置かれていました。市場の中心地でもあったので八木屋、柳屋、さらに乳峯神社付近に吉野家、松坂屋、住吉屋などの十戸の旅籠があったそうです。

そのほか大石、田引、富永、舟戸などにも旅籠があったそうです。

 

  http://tamotsu.info/siseki/kuwashiku7.html

 http://www.mctv.ne.jp/~takase-y/E39.htm

 

本居宣長 の 【紀見のめぐみ】 

 寛政6年10月(1794)65歳のとき 宣長は、藩主治宝(はるとみ、10代藩主)への御前講義のため和歌山街道を松坂から和歌山におもむきます。 和歌山で 進講のあとしばらく滞在し 大阪、京都を巡って3ヶ月後松坂へ帰りました。この時のことを「紀見のめぐみ」という和歌の紀行文にしたためています。

 【紀見のめぐみ】によれば、1日目は早朝に松坂を出発し七日市で一泊、2日目 高見峠を越えた鷲家(わしか)で泊、3日目 橋本で泊、4日目 舟で紀ノ川を下り和歌山に着いています。

 

 宮前村を通るとき

 

 柏野
  かしは野の里の梢も散すきぬまこと葉守の神無月とや

 さく瀧村を見やりて
  冬なれはこすゑは枯て山川の浪の花のみさくたきの里

 關伽桶といふ里の名を聞て
  いにしへにたか行ひしなこりとて名にはおひけむあかをけの里

という歌を詠んでいます。 

 

本居宣長と三井高利

江戸の町でよく言われた言葉に、「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」とか「伊勢乞食に近江泥棒」などというものがあったそうです。これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったものだということです。

 

伊勢商人といえば松坂商人が代表していると考えても差し支えないようですが大別して射和を中心とする「櫛田川グループ」と松坂町を中心とする「松坂町グループ」に大別され後者の有名な商人として 越後屋呉服店・三井両替店の基を築いた三井高利がいます。高利は画期的なアイデアで商売を成功させ江戸で一、二を争う大商人となりました。

 

高利は14歳で江戸に行って蓄財をなし28歳(1649)で松坂に帰り現在の松阪産業振興センターのあるところに屋敷を買って住まいにしたそうです。 また隣の松坂木綿手織りセンターのところは母親の屋敷跡だということです。郷里の母のそばで起居していましたが  65歳の時京都に本拠を移し「江戸店(たな)持ち京あきんど」となります。

 

産業振興センター裏に背割下水があります。氏郷が城下の町と町の境界を下水溝で分けたもので今も生活排水が流れていて機能しています。この背割下水溝をはさんで宣長旧宅跡があります。もっとも宣長が住むようになったのは高利より 六、七十年程あとのことだそうですが、一本の下水溝をはさんで生活していた両人はそれぞれ異なる世界で大成した ご近所さんということになります。

 

そして 西側の通りの向かいは、丹波屋(長谷川)次郎兵衛(木綿)、東側にある通り坂内川寄りには 現在「松坂商人の館」として公開されている小津屋清左衛門(紙、木綿)と江戸に店を持つ豪商が居住しており当時この区画は文化、経済面で際立ったところだったということになります。 

 

【一本の下水溝をはさんで】三井高利と本居宣長   十楽選 よむゼミ より

 

松坂商人については、大喜多先生が 【松坂商人のすべて】Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ を  十楽選 よむゼミ より出されております。

 

 

怪力、専故(せんこ)ものがたり 

 参勤交代があったころの物語として木地小屋に「怪力、専故さん」のはなしが残っています。 

 

  http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/chusei/iitaka/index.htm

 

長野主膳 

 NHKの大河ドラマの第一作は、1963年(昭和38)の「花の生涯」でした。尾上松緑(井伊直弼)、佐田啓二(長野主膳)、淡島千景(村山たか)、ほか長門裕之、八千草薫、嵐寛寿郎、香川京子、朝丘雪路などそうそうたる大スターの出演で 平均視聴率20.2%(最高32.3%)の力の入ったドラマでした。

 

 佐田啓二が演じた長野主膳は、宮前にいたことがありその妻は宮前の人です。

 

(以下徳永真一郎氏の【井伊直弼】を要約しています、色付文字分

長野主馬(しゅめ 後に主膳(しゅぜん))は、天保10年(1839)、伊勢川俣郷宮前の大庄屋、滝野次郎祐知雄(たきのじろうすけともお)宅を訪れた。知雄がたくさんの本居宣長の著書を所持していると聞いて借覧させてほしいと頼み許されると近くの宿屋「角谷」に泊り込み滝野家に通った。

 知雄の蔵書を読み終えるとひょいと姿を消しまた滝野家へ姿をみせることもあったが天保12年(1841)の正月宮前に戻ってきた主馬は、知雄の妹多紀(たき)を妻にと申し入れ結婚した。(花の生涯では、多紀役を東恵美子という女優が演じています) 

 

 二ヶ月滝野家に滞在したのち、主馬は多紀を同伴して尾張、三河、美濃を回って国学を講じる。そして同じ年 江州の伊吹山のふもとの坂田郡市場村の草屋葺きの小さな家に落ちついた。のち同じ村の医師三浦北庵の門長屋に移り住み つづいて一里ほどはなれた志賀谷に転じそこに高尚館という塾をひらき近郷の門人に国学を講じた。そして江州にきてから一年後、噂を聞いて面会を切望していた直弼の埋木舎(うもれぎのや)を北庵にともなわれて訪れた。

 

 直弼、主膳ともに28歳(1842)、三晩続けて語り明かした直弼は そのあと主馬を師として和歌・国学への理解を深めます。

 

 当時彦根藩主は、兄 直亮(なおあき)で直弼は兄弟が多かった上に(直弼は14男)、他家への養子の口もなく三百俵のあてがい扶持の 部屋住みとして過ごしていました。 しかしその後直亮の養嗣子 直元(なおもと)が早世したため (1846) 彦根藩を継ぐことになります。

 

嘉永3年(1850)、直弼が15代藩主になると 主膳は彦根藩に取り立てられ 直弼の片腕として活躍し 井伊直弼の懐刀といわれました。直弼は安政5年(1558)大老に就任し日米修好通商条約を結ぶが 安政7年3月3日(1860)桜田門外の変で殺害されます。

 

 直弼の後を直憲(なおのり)が継ぎますが主膳は藩内で疎まれる存在となり、文久の改革で井伊家が問罪されると文久2年(1862)、斬首・打ち捨ての刑に処されました。享年48歳。それより三年ほどまえの安政6年(1859) 体調不良で病に臥していた多紀は、早籠で彦根に駆けつけた主膳にみとられながら50歳で亡くなりました。

 

 主膳の辞世の句  

  飛鳥川 昨日の淵は今日の瀬と 変わる習いを我が身にぞ見る

 

 多紀の辞世の句は

  迷ひ来し浮世の闇をはなれてぞ 心の月の光みがかん

 

 

徳永真一郎氏は、「影の大老」(上、下)という長野主膳の小説も残しておりその小説は

 

”伊勢の松坂から西南へ六里、河俣郷宮前(現飯南郡飯高町)の滝野氏は、初代従四位侍従の将忠が、宮前に居をかまえて以来、二代知忠から十一代知雄まで、代々大庄屋役をつとめ、近郷に聞こえた豪家であった。・・・・・”

 

で始まり十数ページにわたり、宮前での多紀との出会いから結婚するまでのことが書かれています。 

 

 

 彦根に残る主膳の迹

   http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001200.php

   http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001215.php

   http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001151.php

 

 大庄屋滝野家跡地

 http://www.panoramio.com/photo/58111164

 http://www.panoramio.com/photo/58111148

 

  めづらし峠ちかくにある 石灰岩の礫石の碑には滝野知雄の名前があります。

 

   碑の表に 「倭姫 礫石」

  裏に 「流れては昔に帰る川俣川 礫岩うつ水のしら浪 弘化四年春 滝野知雄」

 

 http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/contents/1324881880461/index.html

 

 

 主膳は、本居大平(もとおり おおひら)門下の堀内家当主(広城(ひろき))とも親交があり堀内家には主膳の手紙が多数残されています。     

 http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/contents/1324881197859/index.html 

  http://www.kogakkan-u.ac.jp/html/about/h21/640.pdf

 

 研究論文もあります。 

   「長野義言とその庇護者 堀内広城・千稲父子」吉田 常吉

  吉川弘文館、月刊誌【日本歴史】 1973年5月号(通巻第300号)、P174~189

    http://ci.nii.ac.jp/naid/40003063053

 

  長野主膳著  堀内広城校の【歌の大武根】(うた の おおむね)、【活語初の栞】(かつご はつ の しおり)という書物もあるようです。

 http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB08831898

 http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA56931921

 

 花岡神社境内に 堀内広城 の歌碑 が あります。

 「神垣ににほふ桜は色も香ものとけき春に猶あまるらん」

 

 ならんで左側には 滝野知雄 の歌碑 

 「ふる雪に色こそまかえとしの中に早さく梅の香りやはかくるる」

  

 http://www.panoramio.com/photo/58112538

 

 

 

主馬と多紀が近江で最初に住んだ家

江州市場村の 桃廼家(もものや)

  徳永真一郎氏【井伊直弼】より

 

主馬は 新居の裏の井戸端に大きな桃の木があったので 雅号を 「桃廼家」 として わが家を桃廼家と呼んだ。

 

(三十数年前、たずねてみたが老朽化によりその少し前、取り壊されており残念でした)

 

明治以降の飯高町

 明治以降については、旧飯高町のホームページに詳しい年表がありますのでしたのURLをクリックしてみてください。

 

  http://www.iitakatown.jp/outline/history/history.html

 

大谷嘉兵衛

 鎖国から開港・明治維新のころしばらくは、日本はこれといった輸出産品がなく生糸と茶が2大輸出産品した。そのころ茶の輸出に尽力し「茶聖」、「茶業王」と称された大谷嘉兵衛(1844~1933)という人は、15才のころに下滝野で幕末から明治にかけて大繁盛した滝川屋に奉公していたということです。(伊勢国飯高郡谷野村(飯高町宮本)出身です)

 

 大谷嘉兵衛はアメリカに茶の関税の撤廃を働きかけて製茶貿易界に尽くすのみならず 横浜市会議長、貴族院議員、横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭など歴任、ふるさと川俣村にも尋常高等小学校(現川俣小学校)の建設など教育の振興や大谷橋の架橋等多大な支援をしました。

 

 http://www.matsusaka-kanko.com/kanko/iitaka/otanikahei/otanikahei_top.html

 

 http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/15b7d67354973104a9be11bfd413f20b?fm=entry_awc

 http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/dcb121ce2f42a8e8404d0288dcfe58dd

 

小津安二郎

 小津安二郎は、19歳(大正11年、1922)のとき代用教員として宮前に赴任していました。宮前にいたのはわずか一年で、その後東京へ行き日本映画界の巨匠とよばれるほどの映画監督となりました。

  宮前にいたころは、花岡座に映画が来ると見に行っていたということです。このころすでに映画への思いが強いものになっていたのだと思います。

 

最初のページにも書いたように、

 

平成28年11月14日、NHK「鶴瓶に乾杯」という番組で佐野史郎さんが小津安二郎監督を偲んで宮前に来た時の様子が放映されました。

  

https://www.youtube.com/watch?v=mQ8KpxaxcT4

 

の 43:45あたりからです。

 

 

 小津安二郎の宮前での教員時代のことが次のリンク先にも書かれています。

 

 http://ameblo.jp/kyuzho/entry-11075183214.html?frm_src=thumb_module

   http://blog.livedoor.jp/kaiju_matsusaka/archives/51404643.html

 

 小津記念碑、そのほか

 

    http://www7a.biglobe.ne.jp/~yatagarasu1999/geikoudou/newpage25.html 

 

 ttp://4travel.jp/domestic/area/toukai/mie/tsu/matsuzaka/travelogue/10582252/  

 

 

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E#.E7.94.9F.E3.81.84.E7.AB.8B.E3.81.A1

 

   

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