宮前村とその近隣の歴史、伝説

 聞きかじったこと、読みかじったことを整理がてらまとめてみました。かってに自分流に解釈しているところもあります。

神代のはなし (伊勢と大和の国分け伝説)

 むかし 天照大神は 宮前と赤桶の境の峠で 天児屋命(あまのこやねのみこと)と出会い川に石を投げ入れ波のとどまるところを伊勢と大和の国境とすることになりました。

そこで そばにあった大石(つぶて石)を櫛田川に投げ入れたら波は高見山の周辺までも及び結局高見山を伊勢と大和の国境とすることにしました。

  そしてその峠で出会ったとき「あら珍しや、天児屋根命ではないか」と声をかけたので「めずらし峠」というようになったそうです。

 

  http://www.kankomie.or.jp/mMukashi/detail/mukashi12_oto.html

 

 たしかに 赤桶の水屋神社には、天児屋命をお祀りしています。

  http://www.mizuya.org/04_gosaijin/gosaijin.htm

  http://www.youtube.com/watch?v=DZYW6w18VAc

 

上のHPにもあるように、水屋神社は春日大社とのつながりもあるようで、また明治初期までは 赤桶以西の神社は朱塗りであったことなどかって大和の勢力がはっていたことをおもわされます。

 

 それに対し作滝には、古くから滝野神明社(明治になって水屋神社に合祀)という神社がありました。倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の鎮座地を求めて各地を転々とし奉祭した場所を「元伊勢」といいますが 滝野神明社、そして以外なことに宮前の花岡神社が「元伊勢」の飯野高宮(いいのたかみや)のいくつかある伝承地(候補)のひとつということがウィキペディアにありました。

 

  『倭姫命世紀』によれば、垂仁天皇22年、倭姫命が伊勢を旅したとき作滝村の滝野神社に泊まられとあるそうなので、候補地にあげられているのかもしれません。

 滝野神明社があったといわれる作滝には、倭姫命が自分の姿をうつし化粧をしたという姿見の池などの話もありそれなりのいわれのある神社だったことがうかがえます。

 

 「元伊勢」( ウィキペディア)

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2

 

  花岡神社

   http://gudagudagekki.blog.so-net.ne.jp/2013-06-05

   http://jingu125.info/2012/05/24/20120521_22165131125/

   http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e8%8a%b1%e5%b2%a1%e7%a5%9e%e7%a4%be-2/ 

 

 この滝野神明社が伊勢領の西端だったのではないかという説があります。それがある時代に高見山が伊勢と大和の国境になったと解釈するほうが理解しやすい。赤桶、作滝を国境だったとすると国分け伝説と矛盾しますが 歴史、伝説は時の権力者により捏造されます。真偽は別としてつぶて石の国分け伝説とめずらし峠の由来は楽しいものです。

 

 礫石(つぶていし)、珍峠(めずらしとうげ)

  http://www.7kamado.net/mizuya.html

  http://www.kankomie.or.jp/spot/detail_1819.html

  http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/waka-4.pdf

  http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-112.html

   (上のHPの中に飯高の駅からめずらし峠を経て赤桶へと通り抜ける動画があります)

 

 滝野神社の跡

  http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/d6f45b6e3cc3a05af720cadc37813ba6 

 

 倭姫伝説 姿見の池

  http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei16/shimpo_160.htm 

  

伊勢の国で一番はじめに日本の歴史上に出てくるのは(古事記に出てくるのは)?

 多気郡の佐那(多気町佐奈)ということです。 天孫降臨のときお供をしてきた他力男神(たじからおのかみ)は、佐那縣(さなのあがた)に坐すと 古事記にあるそうです。むかし素戔嗚尊(すさのうのみこと)が乱行をはたらき天照大御神が天の岩屋に籠もりました。明るさを取り戻そうと知恵をめぐらた神々が天鈿女命(あまのうずめ)の踊りに大笑いするのを不思議に思い岩屋の戸を少しあけたとき天照大御神の手をとって外に引き出した神が他力男神です。

 

 そしてまた 古事記に天孫降臨の先導役をはたした猿田彦神が阿邪訶の海で漁獵中、比良夫貝(ひらぶがい)に手を挟まれて御隠れになったとあるそうです。阿邪訶(あざか)とは今の松阪市阿坂です。ここは後に有名になった白米城のところといったほうがわかり易いかもしれません。

 猿田彦神は 最後に伊勢に鎮座したということになっていますが、伊勢神宮内宮近くの猿田彦神社、伊勢の国一宮 椿大神社の説がありどちらですかねぇ?

 

 猿田彦神社

  http://www.sarutahikojinja.or.jp/

 椿大神社

  http://www.tsubaki.or.jp/

 

「古事記伝」による 神武東征説

 本居宣長の「古事記伝」によると、神武東征の紀伊半島進攻の経路として 熊野ー錦浦ー飯高町ー高見峠を経て      宇陀に攻め入ったとしているそうです

 

   http://rokujigen.iza.ne.jp/blog/entry/798344/

   http://rokujigen.iza.ne.jp/blog/entry/3012672/

  

画像元 HP 六次元の古代史

 

【飯高町郷土誌】においても 

「我が川俣谷には、この谷筋を神武天皇がお通りになったという伝承が古くから語り伝えられている。」と記されており 

神武天皇が熊野の荒坂ノ津の丹敷浦に上陸、大内山から三瀬谷を経てここで二隊にわかれ 本体は湯谷峠を越しそのふもとの栃川村に到る、ここで三瀬谷から相津峠を越え川俣谷を遡ってきたもう一隊(美濃、尾張、伊勢北部からの援軍を集めてきた)と合流した。

栃川村は神武天皇がこのときこの地に三年頓宮されたので 明治八年谷野村と合併したさい、この故事にちなんで村名を宮本村とした。

また 波瀬を神武天皇さまの軍隊が進軍なさる時、あまりの初秋の山の月が美しかった。月の出のあまりな美しさを賞で給うた神武さまはこの里こそ月出と名付けよとおっしゃったのだという、と書かれております。

 

 粥見の井尻遺跡で 日本最古の土偶出土 

 平成8年、粥見の 井尻遺跡で縄文草創期の日本最古の土偶が発掘されました。

また平成10年、同時代(縄文時代草創期、12,000~11,000年前)の土偶が県境を挟んだ滋賀県相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡でもみつかったそうです。

 http://www.db.pref.mie.lg.jp/db/user_upload_file/k405700/14/tusin021.pdf

 http://inoues.net/ruins2/kayumiijiri.html

 http://uoop.blog.so-net.ne.jp/2008-06-09#more

  相谷熊原遺跡

  http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1007aidani03.htm

 

原始遺跡 (飯高町郷土誌より)

 宇栗子遺跡(大字 赤桶 字 宇栗子) 縄文

 A 宮ノ東遺跡 (大字 赤桶 字 宮ノ東) 縄文後期、晩期 ・鎌倉~江戸

   (櫛田川沿いでは 一番たくさん縄文土器の破片がでる遺跡だそうです)

 C 高原遺跡 (大字 作滝 字 高原)  鎌倉~室町

A 宮ノ上遺跡 (大字 宮前 字 宮ノ上)  縄文・鎌倉~室町

B 堂山遺跡  (大字 宮前 字 堂山)  縄文・鎌倉~室町

A 奥ノ広遺跡(大字 宮前 字 奥ノ広) 縄文

B 長野遺跡 (大字 宮前 字 長野) 縄文

 

枇杷ケ野遺跡  (大字 下滝野 字 枇杷ケ野) 縄文

(宮前と下滝野の境目、旧道深谷橋より300~400M松阪より)

虻野遺跡  (大字 下滝野 字 中道、浦久保、西ケ広) 縄文・室町~江戸

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