『飯高』 

 

宮前村は、昭和31年(1931)に合併して飯高町となりました。その町名は、かってこの地域が飯高郡であってということからこの町名になったと聞いています。伊勢国飯高郡から、明治4年(1871)第1次府県統合で度会県飯高郡、明治9年(1876)の第2次府県統合で三重県飯高郡、明治23年(1890)三重県飯南郡宮前村、平成17年(2005)から松阪市となりました。

  

それ以前で『飯高』が出てるのは、古事記にも『飯高』という表記はあるようですが 『倭姫命世紀』(やまとひめのみことせいき)に倭姫が伊勢路を訪れたときその地の国名を聞くと飯高氏の族長,乙加豆知命(おとかずちのみこと)は「飯高国」と申し上げたとあります。(しかしながら【倭姫命世紀】は鎌倉時代に書かれたものだそうです)

 

田畑美穂氏【女神の国の物語】によると900年代にできた百科事典【和名類聚抄】(わみょうるいじゅしょう) には、飯高郡の範囲として阿形、立野、駅前部田、神戸、丹生、多気町の牧などがあるそうです。 雀部竹風氏は、【飯高町】で元松阪町、港、鈴止、神戸、松江、伊勢寺、花岡、松尾、大河内、茅広江、大石、柿野、粥見、宮前がその範囲としています。

 

当初は伊勢と大和の国境もそれほど明確ではなく ましてや山間地の川俣谷のこのあたりはどちらの所属でもない空白期があった。そこに大和の勢力が東進してきて赤桶に水屋神社を祀りそれに対し伊勢側は作滝の滝野神明社が赤桶と作滝を国境として対向してた。後世武力による領土の拡大を第一義とする武士の時代になって高見山まで押し戻したと私は考えています。 

飯高氏 

 松坂の宝塚古墳の被葬者が飯高氏ではないかといわれてます。築造時期、地理的に飯高氏の古墳と考えるのが無理がないと思います。

  奈良時代に在位した元正天皇(げんしょうてんのう)は そのころのある文書に飯高天皇とも書かれておりそのことから内親王のころ飯高氏が経済的に支えていた資養者だったのではという説があります。

 

 またこの元正天皇のとき采女としておもむき 四代の天皇(元正、聖武、淳仁、孝謙)に仕え、典従三位を賜った「飯高諸高」(いいたかのもろこ、もろたか)を送り出ています。

 平安時代になって嵯峨天皇に更衣として仕えた飯高宅刀自(いいたかのやかとじ)が天皇との間に二児をもうけます。この飯高宅刀自も飯高氏の出だと言われています。

 そのほかにも朝廷に任用された飯高氏出身の人(飯高朝臣永雄、氏文、貞宗など)がいたそうです。 

 多気町の近長谷寺(きんちょうこくじ)は、丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた「飯高宿禰諸氏」が光孝天皇の勅願所として建立したものです。

 

元正天皇

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.B3.BB.E8.AD.9C

宝塚古墳

 http://inoues.net/ruins/mie_takaraduka.htm

飯高諸高

 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/chusei/matusaka/index.htm

 http://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E9%AB%98%E8%AB%B8%E9%AB%98

 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=49

近長谷寺

 http://www.ma.mctv.ne.jp/~jr2uat/temple/hase.htm

 

天智天皇、天武天皇の曾祖母(敏達天皇夫人)は 大鹿(相可)の出身 

 下の図は、田畑美穂の【櫛田川の古代幻想】より 写したものです。

 田畑氏は、 【櫛田川の古代幻想】のなかで 天智天皇(てんちてんのう)、天武天皇(てんむてんのう)の曾祖母(敏達天皇(びたつてんのう)夫人)は 射和の対岸の相可の豪族、大鹿の首(おうかのおびと)の娘 莵名子(うなこ)さんという女性だといっております。

 一方 大鹿氏というのは伊勢の国分寺の近く(鈴鹿市)に本貫地があったという説もあります。相可の大鹿氏だったほうが近隣のものとしては空想は膨らむのですが。

大和の文化を運んできた川 櫛田川

 (田畑美穂の【櫛田川の古代幻想】(H11年)より 引用してます )

 下の図より櫛田川流域の歴史の変遷がよくわかります。

 

 サヌカイト(讃岐石)という石があります。鉄が日常の生活に使われるようになるまではこの石を割り刃物や矢じりとして使用してきました。本来讃岐でとれる石ですが奈良の二上山(ふたかみやま、近鉄駅は にじょうざん)でも産出します。それが赤桶の「宮の東遺跡」から下って射和、相可などの遺跡からもサヌカイトの石器が出土しているそうです。 古代において櫛田川は大和の文化を運んできた川ということです。

 

 明和町のイオンモール明和の近くに伊勢神宮の麻と絹を織る神社、上機殿(かみはたでん)、下機殿(しもはたでん)があります。あのあたりは絹と麻を織る集団の定住したところで古代日本で一番早く糸車と機(はた)というメカニズムを使って布を織るという技術が始まったところだということです。当時のハイテク集団が大和から櫛田川にそって東進してきたのだろうと田畑氏は言っています。 その後の丹生から水銀が産出するなど櫛田川流域は非常に早くから開けたところだったとも述べております。(粥見の 井尻遺跡で縄文草創期の日本最古の土偶が発掘されています)

飛鳥、奈良より伊勢への道

 大和から伊勢への道として伊勢本街道、初瀬街道がありました。平安遷都以降は鈴鹿超えで伊勢に向かう斎王もいたようですがそれ以前は険しい山道が多いが最短距離となる伊勢本街道、そして比較的平たんな初瀬街道を使いわけていたようです。

 初瀬街道は今の近鉄大阪線にほぼ沿ったルートをとり一方伊勢本街道は、美杉村を過ぎて飯南町横野、大石、相可、田丸と櫛田川流域を通ります。ともに大和と伊勢を結ぶ幹線街道だったようです。横野より上流の川俣谷(下滝野虻野以西)は少し残念ですが吉野を経由する時通ることもあったのでは?ということでしょうか。

 

 万葉集に高見山がうたわれている歌があります。

 

 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも

 (わぎもこを いざみのやまを たかみかも やまとのみえぬ くにとほみかも)

 

 意訳

 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国は見えない。国を遠く来たからか

 

 「いざみのやま」とは、高見山のことだそうです。この歌はてっきり川俣谷を通ったひとが読んだ歌だと長い間思っていましたが、最近になって 持統天皇の伊勢国行幸に従駕(おほみとも)した人(石上麻呂 いそのかみまろ)の歌だと知りました。持統天皇の伊勢国行幸は伊賀を通ったということですので初瀬街道からの歌だったようです。

 

 伊勢本街道

 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/iseh-0.pdf#page=2

 初瀬街道

 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/hase-0.pdf#page=1

 

律令体制の崩壊

 10世紀になると権勢の座にあった藤原氏などの貴族は風流におぼれ 地方の情勢の掌握、統制がゆるみ国家の根幹をなしていた律令制度が崩れはじめます。飯高氏も10世紀末には衰微、伊勢神宮の勢力がはってきたようです。

 【神鳳抄】には、天慶2年(938)に「粥見」、「滝野」、「富永」が神領、

                           文治3年(1187)神宮領滝野御厨、綿二十両、果物など神宮へ貢献

         (滝野御厨は、作滝のことだそうです)

という記述が、あるそうですので この地域(滝野:作滝から虻野に有間野を加えた範囲)も神宮領があったということになります。 

すこし話はそれますが

 飛鳥時代から奈良時代にかけて全国でたくさんの寺院(600ケ寺)が造営されたそうです。その古代寺院の多くのものが廃寺となりましたが 私は個人的に近鉄中川駅近くの西側丘陵地沿いにあった廃寺に強い関心があります。中川駅から2Kmほどの範囲に八太廃寺、天華寺廃寺(てんげいじはいじ)、一志廃寺、上野廃寺、嬉野廃寺、中谷廃寺など多くの寺があったそうです。天華寺廃寺は発掘調査により塔(東)、金堂(西)とされる版築基壇が確認され また堀之内町の一志廃寺跡とされる薬師寺境内には 塔心礎などの礎石が残っています。このような塔をもつほどの寺院がなぜこれほど狭い範囲のなかにかたまってあったのかと興味深いところです。

 

 中川駅近くを初瀬街道が通っています。あのあたりは飛鳥、奈良から一番海に近い東方向の地となります。東国を視野に入れる場合 東方への拠点として九州、瀬戸内(吉備)などの西方への拠点である難波津と並んで最重要拠点だったと思います。 東国に向かう総大将が中川あたりから宝塚古墳から出土したような船で船出し 神島をすぎるころには伊勢湾の湊、潟から集まった船が隊形をくみ東国に向かったと想像しております。 このように戦略的に重要でありまた東国からみて大和への玄関口でもあるこの地に中央に勢力をもった あるいは肥沃な伊勢平野で経済力を備えた豪族が競って寺院を建立したのではないでしょうか。当時 有力者にとりそれほど意識するところであったのだとおもいます。古代の伊勢の国の中心だったのではと考えるようになりました。

 

 以前、法隆寺から法輪寺、法起寺へ歩いたことがあります。遠くに望む二つの寺の塔の眺めにかっての嬉野(中川周辺)の風景が重なったことがありました。あとで天華寺廃寺の伽藍配置は法起寺と同じだったと知りもっとよく見ておけばよかったと思ったしだいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 天華寺廃寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一志廃寺礎石

上野廃寺近くからかっての嬉野の風景を想像する。 

(天華寺廃寺(右)、一志廃寺(左) 、  何層のどれほどの規模の塔だったかは定かではありません。   中央あたりが中谷廃寺、 撮影地点より1kmほど東側(海側)が 嬉野廃寺のあったところとなります)

 

さらに 素人の妄想をひろげます。

嬉野のふるさと会館(日本最古の墨書土器を展示)と道をはさんで須賀神社があります。

気にかけていたところ須賀神社がある須賀町の東端に八幡古墳という古墳があり写真の説明板にあるようにこの古墳は四隅突出型古墳であるということを知りました。

四隅突出型古墳は、出雲を中心に吉備、山陰、北陸に分布する古墳で、伊勢にこのような古墳があるということが以外でした。この古墳が、出雲の流れを汲むものなのかそれともたまたまこのような形の古墳が伊勢にあったということなのかはわかりません。ただ、須賀神社がある須賀というところに四隅突出型古墳があるということでひょっとして出雲の勢力(蘇我系)が張っていたのではと考えてしまいます。

 

というのも、

素戔鳴尊(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し奇稲田姫(くしなだひめ)と結ばれ宮を定めたのが島根県雲南市大東町の須賀(スガ)にある須賀神社、そして大国主命を祀る出雲大社の本殿うらの摂社は素戔鳴尊が祀られた素鵞社(ソガのやしろ)、 スガ→(音韻変化して)ソガ→蘇我。さらに蘇我氏と出雲国造家だけが方墳を造ることが許されていたということなどから 蘇我氏は出雲神族という説があり須賀という地名、神社は蘇我氏(出雲)とのかかわり連想させられます。

 

 (後日、和名類聚抄にこの地域を 須可 と記載されていることをしりました。須賀より出雲との結びつけることは考えすぎでしょうかね?)

 

一方、近鉄中川駅から名古屋方面に向かって雲出川を渡ってすぐのところに住友電工があり その近くにある物部神社が気になっていました。後日このあたりには 稲穀を収蔵する新家屯倉(にいのみのみやけ)があり物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が新家連を遣わして屯倉の穀を運ばしたと日本書記に書かれていることを知りました。このあたりに物部氏が関わっていたことがわかります。

 

中川駅周辺は日本最古の墨書土器が出るほどかって文化レベルの高い先進地で物部氏が進出していた、それと対峙する蘇我氏の勢力があったのかどうか、須賀神社から名松線をはさんで西南西400m程の嬉野廃寺など周辺の寺院を建立した氏族との関連はどうなのだろうかと思いをめぐらしています。

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