宮前でも源平合戦があった
壇ノ浦で源平の戦いがあったころ(1185) 伊勢で反源氏の兵を挙げた平信兼(たいらののぶかね)という武将がいます。
信兼は伊勢国鈴鹿郡関を本拠地としていましたが 元歴元年(1184)伊勢、伊賀で一族を糾合して源氏に戦いを挑みます。【源平盛衰記】には「九郎判官義経は和泉守平信兼が伊勢国滝野という所に城郭を構えて西海の平家に同意すると聞て、軍兵を指遣し是を責」とあるそうです。
信兼が義経の臣伊勢三郎義盛に攻められ自刃したと言われる滝野城とは飯南町有間野の「こんぴらさん」にあった山城で【飯南郡史】によれば郡内では最も古い城ということです。(下図で高城とあるところです)
【花岡社日天八王子略記】という宮前の花岡神社由緒記に 当社の南の山の頂に平信兼が城郭を構て伊勢三郎義盛が当社の辺(ほとり)に陣を構へと書かれているようですので源氏の陣地は花岡神社の近くにあったということになります。
飯南町史より
平 信兼
どうして信兼が最後の戦いをこの地でということですが、信兼の末子兼隆(山木判官)に伊豆で仕えたという岡小次郎平在常が、平清盛より飯高郡谷野(旧川俣村谷野)の地を与えられ、そこに舘を築いて居住していて それらの人々が要害の高城山に砦を築いて信兼を迎えたということです。
源頼朝が治承四年(1180年)平家討伐の旗揚げを伊豆韮山でした際、まず最初に襲撃したのが山木館で、そこの主 山木判官は信兼の四男です。曽我物語では北条時政が政子と結婚させようとしたことになっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%85%
http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/contents/1324430355626/files/kouhou2309_0008.pdf
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100468.html
http://www.shimin-kyodo.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido123.htm
芳野を逃れた源義経と静御膳が通ったという道行谷
宮前からめづらし峠を通って赤桶への『旧道』は、赤桶地区の人にとって通学時の思い出がいっぱいある懐かしい道だと思います、その旧道に「道行谷」という案内板が設置されているそうです。
吉野を逃れた源義経と静御膳が通ったという伝承があると書かれているようですが、義経と静御膳は吉野で別れたことになっています。?・・。判官びいきの日本人ですので各地にこのような伝承があるのもまた義経にたいする想入れのあらわれだとおもいます。
川俣谷にも、義経にまつわる伝承がいくつかあるそうです。 水屋神社に合祀されている八幡さんは、義経が吉野から伊勢神宮に参詣するため赤桶を通りかかったとき吉兆があり勧請したものということです。
道行谷を静御膳と一緒だったということはないにしても義経、弁慶が吉野からの逃避経路として人目をのがれて高見峠を経て東のほうへと義経の頭に浮かんだ可能性もまったくなくもないというところでしょうか。
道行谷
http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/4fa9208c0fefcdfdc249c25d47b6cdb7
水屋神社の義経伝説
http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/e3ef865469f5af7b77e87efffbbc7fd3
源義経
http://www.bashouan.com/jtYoshitune02.htm
宮前からめづらし峠を経て赤桶までのバイクによる通り抜けの動画
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Ag6mos5pUXU
北畠の治世と信長の伊勢進攻
(【中世城館と北畠氏の動向】下村登良男氏、【北畠氏と修験道】田畑美穂氏、【信長と伊勢・伊賀】横山高治氏を参考にさせてもらっています)
中世に入り武士により政治がおこなわれるようになりましたが、1334年 後醍醐天皇が朝廷による政治を復権しようとし建武の新政(けんむのしんせい)を始めました。しかし二年後の1336年足利尊氏の離反により崩壊し、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝対立の時代が始まります。
そのころ南朝方についた北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は、伊勢に入り玉城に田丸城を築きここを軍事拠点として南伊勢を支配するようになります。そして三男の顕能(あきよし)が伊勢国司に就任します。南朝方の城々を潰そうとする北朝軍との攻防の末 1342年顕能は、伊勢本街道筋の一志郡美杉村の多気(たげ)に本拠を移し 西に65キロの吉野、南に40キロの伊勢神宮を守り室町幕府に対抗し南朝を支えます。
田畑美穂氏によると北畠氏により伊勢平野で取れた一志米は中村川をさかのぼり白口峠から多気、そして庄司峠を越えて和歌山街道(赤桶)に出て 高見峠を経ておそらく吉野へ運ばれたのであろうし、また魚と塩は南島町古和浦の古和浦一族から宮川村の「太陽寺」(湯谷峠)、を経由して和歌山街道(富永)に入り高見峠越えで吉野に送られたものと思われると述べております。このように川俣谷は六十年間にわたり南朝を支えた「米の道・塩の道・魚の道」だったようです。
多気御所と庄司峠(赤桶)の荒滝不動尊
多気御所へは飼坂峠、櫃坂峠、白口峠、などいくつかの峠道より出入りすることになり庄司峠もそのひとつでした。
北畠氏が多気に霧山城を築いたさい庄司峠鎮護のため赤桶に荒滝不動尊を奉祀したと伝えられています。
修験 行者による北畠氏の情報網の中継地点だったと考えられます。
1392年南北朝が統一されましたが北朝側の天皇が引き続き即位したため 満雅(みつまさ)は 合一条件と違うということで兵を挙げます、が足利勢に敗北します。このとき阿坂城で馬の背に白米をかけ水が充分あるように見せかけ敵を欺いたという話が白米城の伝説として伝えられています。また後日、信長の伊勢侵攻のさい木下藤吉郎がこの城を攻めたとき足に負傷をしたことでも知られています。
それから13年後満雅は再度挙兵しました。しかし津の岩田川の戦いで戦死します。弟の顕雅(あきまさ)の奔走により北畠氏が支配していた一志郡、飯高郡の旧領は安堵となり 以後、教具(のりとも)、政郷(まささと)、材親(きちか)、晴具(はるとも)、具教(とものり)と百三十年間、南伊勢を支配することになります。七代晴具は多気に近世的な城下を整えるとともに多気御所では連歌、能楽、茶の湯の会が催されたり名園北畠庭園を造園したり「花の多気御所」といわれる時代を築きました。庄司峠のむこうでは、京の文化の華がひらいていたことになります。
中世の県内勢力図
1567年(永禄10年) 信長は伊勢に進攻、伊勢平氏関一族の流れを汲む鈴鹿の神戸(かんべ)氏に三男の信孝(のぶたか)を婿に入れ 安濃、奄芸郡の長野氏とは停戦協定を結び弟の信包(のぶかね)に長野家の家督を継がせ北勢を制圧します。
1569年(永禄12年)信長の南伊勢への進攻がはじまります。大河内城は激しい攻防となり五十余日の北畠軍の総力戦となりました。川俣谷にもかってない緊張感がただよったこととおもいます。当時川俣谷は富永に富永政所(まんどころ)がおかれ北畠家の家老格の重臣、鳥屋尾石見守(とやお いわみのかみ)が治めていました。【勢州軍記】には文武を得て知略深く万事私を捨て人を立て無双の執事なりとあり また武田信玄へも具教の使者としておもむいているほどの武将です。
大河内城攻め陣配置
同年旧暦八月二十八日、織田軍は大河内城を取り囲みます。大河内城の東の桂瀬山に信長は陣を定め 南の山には滝川右近(一益 かずます)、蒲生右兵衛大輔(がもう うひょうえたいふ、 後の松坂城主 氏郷の父、 氏郷はこの戦が初陣(当時14歳で))他、 西に木下藤吉郎他、東に柴田修理(勝家)、佐々蔵介(成政 さっさ なりまさ)他、 前田又左衛門(利家 としいえ)は信長のまわりを固めるというそうそうたるメンバーでした。一進一退の攻防が続き双方におびただしい犠牲者を出す血戦となりましたがついに具教は家督を信長次男、信雄(のぶかつ)に譲る条件で降伏しました。
その後、具教は三瀬谷の館に(多気郡大台町)隠棲します。信雄とはいろいろ確執があり ないがしろにすることもあったようです。1576年信長は具教ほか一族の謀殺を命じます。三瀬谷の館には、かっての北畠家中の侍だったもの三人が訪れ対面した具教に斬りつけます。塚原卜伝より兵法一之太刀を授けられた剣豪、具教も多勢に無勢、四十六歳の無念の生涯を終えます。
具教の大事に駆けつけた家臣が暗殺隊より具教の首を奪い返し 宮川村栗谷から尾放峠(おばなしとうげ)そして野々口まで下ったとき そこで多気御所にも変があり三瀬谷に急ぐ家老・芝山出羽守と出会ます。出羽守は具教の首を野々口に葬り、追手を討ち払い、近くの滝に馬ごと入水したということです。家臣は必死で栗谷からの山道を馬の尾をつかみ峠まで登って来てもう大丈夫と馬の尾を放したので尾放峠というようになったと聞いています。
そのあたりの詳しいことは下のリンク先に書かれています。
北畠具教卿首塚
http://blog.goo.ne.jp/goo25715/e/042b83886e3071b172875c5109d598b8
http://ameblo.jp/mienoinaka/entry-10613910517.html
出羽(芝山出羽守)の滝
http://mienotaki.raindrop.jp/text/iit44.htm
こうして天正4年(1576)11月、南伊勢も名実とともに信長の勢力下にはいりました。翌年、興福寺東門院院主だった具教の弟 具親(ともちか)が還俗し 三瀬谷(大台)、多芸(美杉)、小倭(おやまと 一志郡白山町)、川俣谷などの譜代の侍を糾合し北畠の再興をはかります。 川俣谷の諸侍は具親に従い信雄軍に挑みますが、赤桶城、九曲城(つづらくまじょう、飯高町粟野)がまず落とされ、続いて峯城(飯高町落方)が攻め取られ、富永城も落ちてついに森城に拠った具親は安芸の毛利氏を頼って落ちのびます。
赤桶の西願寺の上にある赤桶城はこの時代のもののようです。下滝野の仲之郷にある下滝野城は、はっきりしていません。【勢州軍記】に「天正5年の春、川俣谷滝野有間野村の軍が、鉄中に城(鉄中城)を築いて中央に打って出ようとした。故に信雄は滝川三郎兵衛尉、天野佐左衛門尉、田丸中務少輔、日置大膳亮に命じてこれを攻めた。また大膳の弟・日置次太夫が大将となり滝野・山副を攻めた」という文言があります。
一方【勢陽雑記】には、滝野、山崎の両城を攻めるとあります。どちらかが原本を誤写、誤釈したのでしょう、いずれにしても滝野(作滝から虻野に有間野を加えた範囲)をおさめていた滝野氏の城を日置次太夫が攻めたことになります。滝野城はどこにあったのか? 平信兼が 自刃したという滝野城と混同しそうですが 信兼が こもった城は「こんぴらさん」の高城だったといわれています。そして鉄中城は〔宮前にも源平合戦があった〕(この頁の最初の部分)の滝野城付近図で中央からやや右上 上之原という台地にあったということで下滝野城はここより北東に900Mほどの元下滝野分校近くとなります。
下滝野城といわれている所には確かな城跡があり滝野城は記述があるがはっきりしない、滝野城≒下滝野城ではないのだろうか? なにか手がかりがないかといろいろ探していたところ松阪市の教育委員会が出している【松阪市遺跡地図】(2008年)に下のような地図があるのを見つけました。このなかには滝野城(有馬野字西上山)と下滝野城(下滝野字仲之郷)のあった場所がはっきり示されています。これほどはっきりふたつの城の所在地があらわされているのは、私の知っているかぎり初めてでした。なにか新しい事実でもわかってきたのでしょうか、一度現地に行って見てみたいと思っています。
「松阪遺跡地図」 松阪市教育委員会 (2008年) より
もともと具親の川俣谷の蜂起について書かれた書物はひとつだったとおもいます。滝野城がはっきりしないのは、それが書き写されたり それをもとに新たな解釈がなされていくうちに何らかの都合で滝野と下滝野を混同された可能性もあると考えていました。下滝野城は中世の山城です。川俣谷では中世に平信兼、具親による蜂起がありましたが 下滝野城が石垣及び土塁を用いて本格的に築かれていただけに 北勢を本拠としていた信兼ではなく具親の蜂起にかかわった山城ではないかと私は考えています。
赤桶城
http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/week45/index.html
http://ktaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/10/26/3_2.jpg
http://www.geocities.jp/ikomaimie/ise/akou.html
下滝野城
http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post_89f2.html
http://ktaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/08/18/3_3.jpg
http://www.geocities.jp/ikomaimie/ise/simotakino.html
追記
その後この近くを通る機会がありいろんな方向から滝野城跡とされる山を眺めてみました。南西から延びる尾根の東端に位置し櫛田川の蛇行により東と北側が川という防御に適した地形で、少し上流にいけば多気、三瀬谷に通じる庄司峠と尾放峠があり戦略的に城を構えるにふさわしい場所だということがわかりました。ここに下滝野城とあわせて防御線をつくれば櫛田川を攻め上がる敵を両岸で抑えることができます。下滝野城と滝野城はそのような意図で築かれた一対をなす城だったのではという考えになりました。
しかし鉄中城が攻められたということは、この防御線も破られたということでありその時滝野城はすでに陥落していたのか孤立していたのかあるいは廃城だったのか、どうだったのでしょうか?
それから5年後の天正10年、本能寺の変で信長が倒れました。その年の冬に、備後国に逃れていた具親が伊勢にもどり、五箇篠山城(ごかささやまじょう 旧多気郡勢和村朝柄)に籠城しました。城への攻撃は翌正月一日に始まり、2日間ほどの戦闘で落城したそうです。具親は その後伊賀に落ちたということですが、伊勢に入国して八代、二百四十年余、北畠一族の再興の望みも消え事実上の終焉のときでした